はじめまして Yume と申します。
産休・育休を合わせて、7年間病棟看護師をした1児のママです。
養護教諭になるために
病棟看護師をしながら通信制の大学に入学。
大学在籍中に妊娠し出産。
子育てのため1年間休学した後、
教育実習も終え、合計で3年在籍し無事卒業。
卒業する年に教員採用試験を受け、1発合格。
半年間、臨時的任用職員として小学校に勤務。
初任校の中学校で心が病み休職を経て辞職。
しばらく療養した後、看護師として健診業務をしています。
看護師から養護教諭になった時点でも、なんだか成功と挫折を味わっている私ですが、中学3年生の頃、学校に行きたくなくなり不登校傾向。
高校2年生の頃、当時付き合っていた恋人が事故で死亡。抑うつとなり高校中退。
通信制高校に通って高校卒業を手にして、看護学校に通い正看護師資格を取得といった複雑な経由のある人間です。
人生山あり谷あり まさにそのような人生を歩んでいますが、私の経験が少しでもお役に立てればと思ってblogを開設しました。
ちょっと暗くなりますが、自己紹介します ^^
高校卒業まで
小学生 親の離婚・孤独
私の父親は会社を経営しており、幼い頃はわりと豊かな生活をしていました。
自宅は離れを含めて2件、どちらも大きな家でたくさん部屋もありました。家には祖父母、両親、兄、姉がおり7人家族。仲も良く楽しい日々でした。
そんなある日、家に男の人2人がよく訪れるようになりました。私たち子どもに向かって言うことは「お父さんかお母さんいる?」両親には「いない」と言ってと言われていました。
幼い私は、彼らが何者かもわかっていませんでしたが、家には来てほしくない客人だということは察していました。
前のように大人たちが笑わなくなり、どんどん家庭環境が悪くなっていることに感じていました。電気が止まる、ガスが止まる、水が止まる。それでも私たちはなんとか家で生活していました。
ある日、祖父母が家から出ていくことになりました。それから私は学校から家に帰るとひとりぼっちの生活となりました。
しばらくして、家にあるタンスや机、あらゆる物が無くなっていきました。お金がないからなんだと理解していましたが、どんどん空になる家を見て、むなしくなったことを覚えています。
ある時点から、「お母さんとお父さん、どっちがいい」と言われるようになりました。わたしは「お母さんがいい」と言って泣いた。
小学2年生の冬、大きな家から小さなアパートに引っ越すことになりました。集合住宅、こんな小さい家に住むんだなと思いましたが、新しい生活にワクワクしていたことを覚えています。
新しい生活にお父さんはいませんでしたが、電話をしたらすぐ父が会いに来てくれました。母は朝早くから夜遅くまで仕事をしていたため、家にはいません。さみしい思いをしましたが、兄と姉のおかげでさみしさは半減しました。
中学生 学校が嫌になり不登校傾向
中学1年生、部活に入り毎日練習に励みました。友人と喧嘩することもあったし、急にグループから外されて、軽くいじめにもあいました。
それでも、違う友達と関わって仲良くしたり、勉強したり、恋愛したり、部活に励んだり、楽しい日々だったと思います。
中学3年生、部活を引退してから学校に行く意味がわからなくなりました。ただ、面倒くさくなったのです。学校の先生に従うことも嫌だったし、同学年の友達との人間関係にも疲れていました。
兄も姉もやんちゃなタイプで自由にしていたので、私も自由に過ごすことにしました。
高校入試。私は高校に行く気はありませんでした。ネイルが好きだったので、高校卒業もとれるネイルの専門学校に行きたいと言いましたが、お金の問題が発生しました。母は、「行きたかったら行ってもいいよ」といってくれましたが、どう考えてもお金が足りません。私は、母を困らせたくなかったので、「ネイルは飽きた。もう行かない」と言いました。
たまたま、技術の授業でモノづくりをしていました。物を作ることが楽しいと感じました。先生からは「のこぎりがうまいから工業にでも行ったら?」と言われました。その言葉をうのみにし、工業高校に入学しました。
高校生 恋人が事故死 うつ状態に
高校には無事合格。というより定員割れしているようなところに入りました。
男子生徒の多い工業高校、わたしにはぴったりはまりました。とても楽しかったのです。勉強も学校生活も充実し、毎日学校に行くようになりました。
高校1年生の春、友達の紹介で1人の男性に出会いました。定時制の学校に通っているヤンキーでした。金髪でツイストをかけている彼、若い頃のダルビッシュ有に似ている笑顔の素敵なイケメンでした。すぐに恋に落ちました。
高校2年生の秋、彼はバイク事故で亡くなりました。まさかでした。こんなにも人は簡単に死ぬのかと…楽しい思い出がぶわっと頭を流れ、とにかく涙が溢れました。
心も身体もぼろぼろになってしまった私。自傷行為をするようになりました。とっても苦しかったのです。生きる希望を無くし、毎日地獄のような日々が待っていました。
過剰なストレスで突発性低音難聴となり、引き続いてメニエール病。眠れなくなり、ごはんも食べれなくなった。うつ傾向で外にも出れず、高校は通信制過程に編入することとしました。
しばらく地獄のような日々でしたが、徐々に回復していきました。通信制の高校には結局3年通いました。卒業を目の前に、進路を考えるようになりました。
わたしは人の命に係わる仕事に就きたい。目の前で人が倒れたとき、事故が起こったとき、私がその人を助けることができるように、看護師になりたいと決めました。
看護師になるために
正看護師を目指すにあたって、4年生大学がいいのかな、3年過程で取りたいから専門学校に行ったほうがいいかな…とかいろいろ悩みましたが、重大な欠点がありました。知識の問題です。
中学3年生から学校に行かないことが多く、知識はまあまあ低いです。いや…私に限っては
本当に勉強をしなかったので、知識は皆無。
4年生大学なんて無理。専門学校の受験内容ですらちんぷんかんぷん…さすがにまずいと思って、受験勉強に励みました。
専門学校の受験に失敗
3年で正看護師を取得できるという地元の看護専門学校を受験しましたが、落ちました。
中学から勉強してこなかった自分を責めるしかなかったです。落ちこぼれの高校生、同学年の友人にも馬鹿にされるような高校生だったけど、本当にへこみました。なんでこんなに頭悪いんだろうと思いました。
しばらく自暴自棄でしたが、切り替えだけはピカイチの私!!
「絶対看護師になってやる」
逆に燃え始めたわたしは、とにかく看護師になれる方法を検索し始めました。そして通信制高校の先生にもなんとか看護師になれる方法を探してもらい、見つけました。私が看護師になれる方法。
准看護学校
知ってますか?いまは無くなりつつある学校です。医師会は、准看護師の制度を無くしたい方針なので、どんどん廃校を余儀なくされています。
ただ、いまも数少ないですが残っています。看護師になる方法って、いろいろあるんです。みんな知らないだけで。
准看護学校入学
准看護学校には見事合格しました。
どんな学校なのかなととてもワクワクしていましたが、入学式に学校に行ってびっくりしました。同年代が少なすぎたからです。私が入学したときは、訳ありの方がすごく多かったです。
高校卒業し専門学校に落ちた子
介護士として病棟勤務をしていた方
インストラクターとして働いていた方
40代後半の子持ちのママさん
もうそれぞれ…仲良くワイワイ学校に通うのかと思っていましたが、どうやらそうではなく、人生の先輩たちから人生は甘くないということまで教わるような学校生活となりました。
高等看護学校へ進学
准看護学校卒業後、正看護師取得のため、高等看護学校へ。
わたしの住む県にも学校があったのですが、私はここで県外に出る選択をしました。地元を出て一人暮らしをしたり、地元とは違った世界を観たいと思ったからです。
ただ、他県での学校生活はストレスの塊でした。慣れない環境、気の許せる友人がいない、方言が違いすぎて何をいっているのかわからない、正直つらい経験ばかりで泣き泣きの日々でした。
加えて、学校自体がものすごく厳しい学校だったんですね。学校での座学、実習に行くための技術試験、病院での臨床実習、とにかくレポートも多く厳しかった。
2年間の厳しい学校生活を終え、国家試験にも合格し正看護師になりました。
看護師として地元の総合病院へ就職
無事正看護師を手にし地元に帰りました。
いろんなことがあった病棟勤務でしたが、人に恵まれ、楽しく仕事をさせてもらいました。また、初期研修が手厚かったおかげもあり、看護師としてしっかり勤めることができました。
看護師時代、3交代勤務だったため、とにかく仕事の日々。
もちろん飲みに出かけたり、長期休暇をとって旅行に行ったりと楽しみながら仕事しました。
けど、やっぱり病院勤務は大変でした。ストレスかなり大きかったです。
3年目…結婚しました。
ここで思ったことがありました。
「私、いつまで仕事を優先して生きていくの?」
朝は情報収集のため、出勤時間より早く出勤するのが当たり前
日勤は定時で帰れないのが当たり前
3交代だったから朝も夜も関係なしに働く
「子どもができたら私どうするの?」
看護師で働くママさんもいましたよ。ただただ尊敬でした。でも私には無理。そう思いました。
病棟看護師から養護教諭を目指す
人生の分岐点で
看護師として働き続けることに限界を感じた私,
もう一度私がなりたかったこと、
看護師の資格を活かして働ける職業を探し始めました。
そして見つけた養護教諭。
私は保健室の先生に憧れていた!
ここでわたしは養護教諭になることを目指しました。
ただ、私は結婚してます。夫はなんと言うか…
不安だったけど、
大学に行きたいことを伝えると、
「大変だと思うけど、頑張れ。家のこととか、自分ができることは手伝うから勉強に励んでいいよ。」
わたしの夫、理解力のあるいい男でした ; ω ;
地元を出て1年大学にいけるようなお金もないし、一応人妻だから家のことはしたいし、私にぴったりな学校ないのかなととにかく情報収集!
そして 見つけましたよ。通信制大学。
通信制大学に入学 養護教諭1種免許取得
わたしは全国に4校しかない、看護師資格を持った方が養護教諭1種免許を取得できる通信制の大学に通い、病棟看護師として働きながら、養護教諭の資格取得へ向けて勉強を始めました。
地元から大学はとにかく遠かったですが、スクーリングには出ないといけなかったので、職場の上司にお願いして夜勤専従にしてもらったり、長期休暇を利用して学校に通いました。
大学在学中に妊娠し出産したので、1年間休学しましたが、その間にも養護教諭になるために必死で勉強。
さすがに教育実習期間の約1か月間、仕事を休むことはできなかったので、看護師を辞めました。実習期間中は残っていた有給消化で給料が入りましたし、その後は退職金と貯金を切り崩してなんとか生活が出来ていました。
通信制大学は結局、3年かけて卒業することができました。
養護教諭の現実
教員採用試験1発合格
大学卒業の年に、来年度の教員採用試験を受けました。
私が受ける年に限って、例年の半数しか養護教諭の募集が出なかったんです。何としてでも合格したかった私はとにかく勉強に励みました。
大学のレポートや講義ももちろん受けながら、とにかく採用試験の勉強。子どもを寝かしつけた後も勉強。子どもは保育園に預けていたので、昼間は永遠と採用試験の勉強をしていました。
教科書や参考書を開くと、吐きそうなくらい嫌気がさしていましたが、なんとか頑張りました。
無事、教員採用試験合格です。
養護教諭 精神崩壊で休職・辞職
産休・育休の代替え人として約半年間小学校で勤めた私。養護教諭、とっても楽しかったです。
小学生は苦手だった私ですが、子どもたちと関わっていく中でどんどん子どもたちが可愛くなってきましたし、自分の仕事の責任もあり充実した日々でした。
残業することももちろんありましたが、定時で帰れることもあり、家庭との両立が出来ていました。臨時職員の身分でしたが、お給料も高かったですし、文句はありませんでした。
が、しかし、初任校の中学校で教師間の人間関係のこじれで精神崩壊しました。
初任校が大規模校で養護教諭2名配置だったんですね。その相方となる先生とまあ性格が合わない。価値観も合わず、ストレスは溜まっていく一方。それでもなんとか頑張ろうと思ったんですけどね、身体が追いつきませんでした。
動けなくなってしまったんです。抑うつですね。
休職して心は安定したのですが、ストレスの原因となった先生と働くことはわたしにはできないと判断し、あっさり辞めることを決意しました。
Blogをはじめたきっかけ
もともとこのブログは看護師さんのキャリアアップに関する情報を提供したり、仕事と家庭の両立を応援できるようなコンテンツを展開するために開設しました。
ただ、ブログをコツコツ書いているうちに、自分と同じように悩んでいる人が多いことにも気づきまして、同じ悩みで悩んでいた人が試行錯誤して人生を豊かにしようと奮起している姿は、なんだか生きる希望にもなるものなんだなって思ったんです。
こんなちっぽけな私ですけど、私と同じような悩みを抱えている人が読んでくれたとき、「私も頑張ったらこんな人になれるかな」とか「私も挑戦してみようかな」と思ってもらえるようなブログに育てたいなと思っています。
マイペース更新のゆるゆるなブログですが、よろしくお願いします。